神奈川アラカルト

囲碁の神秘と魔性
横浜市戸塚区; 池田裕夫

 数年前、プロの棋士を団長とする「中国囲碁交流の旅」に参加した。観光も兼ねていたので、杭州、桂林などの景勝の地が中心となった。これらの地で、地元の棋院代表と4局対戦した。棋院代表と言っても、予めこちらの棋力を申告してあったので、それに合った地元のアマが対戦相手となった。お互いに言葉は通じないものの、「あなたは英語を話せますか?」「いいえ、ほんの少し」といった型どおりの挨拶を交わした後、終始無言の対戦となった。でも、一手一手に相手の意図が読み取れるので、異国の人と対戦しているとの実感はなかった。何か旧知の仲間と手合わせをしているかのような錯覚を味わった。囲碁は「手談」ともいうから、言葉は通じなくても打つ手を通じて、今相手が何を考えているかが読み取れる。

 囲碁には、このほかにも「烏鷺(うろ)」「爛柯(らんか)」「座隠(ざいん)」「橘中の楽(きっちゅうのらく)」など多くの別名がある。これらの詳細は広辞苑の解説に譲るが、いずれにも囲碁の魔性とも言える古来の言い伝えが含まれている。「爛柯」がその典型である。中国・晋の時代に木こりが人の囲碁に見とれているうちに、斧の柄が腐るほどに時の経つのを忘れ、家に帰ってみると自分と同時代の人は誰もいなくなっていたという中国版浦島太郎伝説からとったものである。「碁打ちは親の死に目にも会えない」という日本のたとえも囲碁の魔性を表す俚諺である。

 囲碁の発祥については、古代中国の伝説の時代「尭・舜」に始まるともいわれる。そうだとするとすでに5000年近くの歴史を有することになる。それがいつ我が国に伝わったのかは定かではないが、奈良時代の遣隋使や、遣唐使などによってもたらされたともいわれ、その中でも吉備真備が最有力とされている。これらを裏付けるものとして、正倉院宝物の中に国宝「木画紫檀棊局(もくがしたんききょく)」を含めて3基の碁盤が残されており、数年前の正倉院展でこれらを目にした時の残像が今も鮮明に残っている。この他にも碁にまつわる話は、古くは「古事記」「懐風藻」「風土記」などにも記されている。その後にも「源氏物語」「古今和歌集」「枕草子」などにも登場することから、平安時代には貴族の間にも広く普及していたことが窺える。

 昨年春、上野の東京国立博物館で「妙心寺展」が開かれ、ここに戦国時代の画家海北友松作の重要文化財「琴棋書画屏風図」が展示された。琴は文字通りの琴、棋は囲碁、書は書道、画は絵画を意味し、これら4つの芸術が当時の文人の嗜みとされ、この時代にも囲碁が広く普及していたことがわかる。先年、京都の大徳寺にある塔頭「龍源院」を訪れた際には、秀吉と家康が対戦したという蒔絵入りの碁盤が展示されているのを見つけ、戦国の両雄の丁々発止の「手談」に思いを馳せた。
 その家康が天下を取り始まった江戸時代には、お城碁の名のもと歴代将軍が囲碁を保護し、これを職業とする家元制度が確立した。本因坊、井上、安井、林の四家がそれであり、本因坊家の最盛時には五十石五人扶持を与えられたといわれる。世襲となれば、その家系に生まれた子孫の棋力の維持は並大抵ではない。場合によっては他家からの養子縁組に取って代わられることもあったようである。

 これらの流れを現代に引き継ぐ挿話も枚挙にいとまがない。中でも川端康成の小説「名人」は、今も囲碁ファンに広く読み継がれている名作である。この作品は、本因坊家の流れを汲み、明治、大正、昭和初期の3代にわたり不敗の名人と謳われていた本因坊秀哉が、昭和の若手第一人者木谷七段(小説上では大竹七段)を相手に、一局の戦いに6カ月を費やして打ち継いだ名人引退碁を題材にしたものである。東京日日(現在の毎日)新聞の観戦記者を務めていた作者は、その時の感動を名人の死後数年を経て小説化し、亡き名人への悼辞としたといわれる。終生囲碁を愛した川端康成は、このほかにも囲碁の真髄を「深奥幽玄」なる四文字熟語に凝縮して表現し、それを掛け軸にしたものが今も市ヶ谷の日本棋院「幽玄の間」に飾られ、数々の対局戦の舞台を提供している。ここで戦うプロ棋士の最高位は九段であるが、この段位はアマにはない。そして、この免状のメインフレーズが「手段霊妙にして、将に神域に達す」であるなど聞くにつけ、この世界に底知れぬ深遠さを感じるのである。

 古代から悠久の歴史を刻んできたわずか白黒2石の世界ではあるが、この中には計り知れない神秘と魔性が宿らされており、これらの尽きせぬ魅力に誘われて今日もまたその世界の中をさまよい歩いている。